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変貌する平尾山荘

山松の木の間の月を眺むれば

(山の松の木の間から見える月を眺めていると、なんとなく寂しくなって、まさしく自分は世を逃れて寂しい山住みをしているのだとしみじみ感じられる)

まさに我が身は世をのがれけり

福岡城から2キロほど南下した所に野村夫妻の隠居宅はあった。近くに人家はなく、庵は松の大木の間にひっそりと建られていた。

夫妻は素朴な山荘の自然をこよなく愛しその情緒を多くの歌に詠んだ。和歌の師大隈言道も山荘に度々訪れ、歌友たちが集って風流な歌会も催された。それは幕末の福岡に花開いた文化サロンのようであった。

平尾山荘,野村望東尼
野村望東尼胸像
野村望東尼の胸像と平尾山荘

モトが54歳の時、夫が亡くなり、初七日の法要ののち、菩提寺である明光寺で得度剃髪し招月望東禅尼となった。(法名であるから音読みでボウトウニと読んだほうがよい。)

さながらに澄める泉はかはらねど

けふ墨染めの影ぞ見えける

(もとのまま澄んだ泉は変わりはしないが、墨染めを着た姿が映っている)

明光寺から戻った望東尼は平尾山荘に戻ってきて、庭の泉の水面に浮いた葉でも拾おうとしたのか、泉の縁に腰を下ろし、ふとその水面に目を落とすと、そこには以前と違って墨染めの衣を纏った自分が映っていた。一人でくらすことになった寂寥感も感じられる。

夫がなくなって二年後、文久元年(1861)11月末、望東尼は念願の上京の途につく。徒歩で小倉まで行き舟で下関に渡り、下関からは瀬戸内海の海路を大坂まで進んだ。福岡を出て二週間後の12月7日大阪に着き、さっそく和歌の師大隈言道と感涙の再会を果たした。
その年の暮から京都の縁者宅に身を寄せ、翌年6月まで滞在した。京都では名所・旧跡を訪ねたり、皇居を拝したり、著名人たちに面会を求めたりもした。女流歌人で陶芸家の太田垣蓮月尼にも会った。
そのころ、奇しくも歴史の主舞台が江戸から京都に移ろうとした時期で、薩摩の島津久光が多勢の兵士を引き連れ上洛中であり、寺田屋の変も起こった。
福岡の家族にあてた手紙にもだんだんと時勢について触れた文面が多くなり、多感な望東尼は日本の行く末を憂うる気持ちを強くしていった。

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