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ただひとすじの大綱にせよ

高杉晋作

望東尼

(諸国の武士たちの大和心をより合わせて一本の大綱にせよ)

もののふの大和心をよりあわせ

 夫の死後、それまで静かだった山荘は勤王の志士たちの隠れ家として、歴史の一舞台となっていく。望東尼は親子ほども年の離れた若者たちと和歌を詠むことで心を通わせあった。京都で知り合った福岡藩御用達の馬場文英とは手紙で情報を交換し合い、彼から届いた京都の情勢を綴った密書はただちに志士たちに回覧された。また、上京する志士を文英に紹介し、宿の世話をしてもらったりもした。山荘を訪れた志士たちの熱き思いに触れる時、望東尼は彼らが互いの志を一本にして日本を揺り動す原動力になってほしいと願うのだった。

 長州の高杉晋作が、福岡に亡命してきたのは、元冶元年(1864)11月のこと。晋作は長州藩の内部抗争の末、藩の実権を握った反対勢力である俗論党から身を守るため、福岡藩士中村円太らの計らいで、10日間余り平尾山荘に潜伏することとなった。

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冬ふかき雪うちなる梅

埋もれながら香やは隠るる

(冬の最中の雪の中にある梅の花は雪に埋れると香りは隠れるのであろうか、いや決して隠れはしない)

 望東尼は晋作を梅の花にたとえ、雪が花を覆ったとしてもその香が隠れることはない、つまり、晋作がただならぬ人物であることを見抜いていた。
そして、晋作が再起することを強く願うのだった。

 間もなく晋作は、長州藩内の事態の推移をもはや黙ってみていることが出来ず、再挙を図るため危険を覚悟して藩に戻っていった。その時、望東尼は晋作のために着物を縫って与えた。

まごころをつくしのきぬは国の為たちかえるべき衣手にせよ

(真心を尽くして筑紫で縫った着物は国の為に戻って行く時の袖にしなさい)

 長州に戻った晋作から御礼の手紙が望東尼のもとへ届けられた。そこには、常に死を賭して行動しているので、もはやこの世であうことはないであろうが、来世でお礼をしたいと書かれていた。
 12月15日、雪の降る中、晋作は長府の功山寺で決起し、ついに藩論を掌握することに成功した。望東尼が、彼に革命家としての命を蘇らせたといえよう。

 2年後、晋作は、獄中の望東尼を救出し、望東尼への恩返しを果たしたのである。

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